※インターネットニュースサイト「粋な人旬な人」の記事より
近江屋牛肉店の三代目店主、 寺出昌弘に三代目に至るまでの先代である父との関係。現在の仕事への思いを訊いた。
■近江屋牛肉店とはどのようなお店ですか?
近江屋牛肉店とは、築地場外市場で営業する昭和4年創業の精肉店です。
現在は三代目社長である寺出昌弘が継ぎ、東京の業者筋や、銀座の料理人などをお客様に肉の専門家として営業をしています。
ですので、プロの方が納得して頂ける商品を探して、仕入を行い皆さんに美味しいお肉を食べてもらう事を生業としています。
■具体的に「目利き」とはどのようなものですか?
「目利き」とは、技術でも、知識でもない。そう思っています。
あくまで、お客様の為に良い商品を届けようと言う「強い思い」。
どのお客様でも納得してもらうための自分自身への誓い。
そのプライドそのものが築地の「目利き」なのです。
私自身の中では、目利きとは良い商品を選び全ての人に納得してもらう為の己のプライド。そう言う思いで捉えています
■築地との関わり、そして三代目になるに至った経緯を教えていただけますか?
ちょうど50歳になるのですが、私の人生は築地に産まれ、築地に生きる。そんな半生でした。
正直、二代目の父から明確に家業を継げとは言われていないのですが。
自然と、本当に自然と、築地に足が向き、結果として三代目として家業を継いだのです。自分にとって、築地も肉屋も人生にとって当たり前の事のような気がしました。
私はゼロ歳から築地で育ち、小学校、中学校と他の築地の人間達と同じように育ってきました。
対して二代目の父は荒川区で育ち、築地に移転してきたため。築地場外で商売を始めた近江屋二代目として、常に外様(築地以外から来たという意味で)の人間として、昔は築地商人から壁があった気がしていたと父が語る事がありました。
自分が外から来た人間という事に相当なコンプレックスを持ち、三代目の自分にはそういう思いをさせたくない。その想いから築地の学校に拘っていたらしいのです。
ですから「生粋の築地っ子」ですね。そして先代が築地で産まれたわけでは無い外様だったからこそ、私はその分人一倍築地への拘りとプライドがあるのかもしれません。
■どの様な子供時代でしたか?
小学生の頃はとても消極的な性格だったと思います。
引っ込み思案。自分に自信が持てないのです。
怒られる事ばかりの中で、いつの間にか、そういう性格になったのだと思います。
でも、ある日ボーイスカウトに出会いました。入隊して、初めて自分から率先して何かをすると言うことをしました。
ボーイスカウトでは常にリーダーシップとボランティアを通した奉仕の心を実践する。常に前へ、常に人のために。
そういう環境の中で、私の中に変化が出てきたと思います。
私が現在、積極的に築地場外の移転問題に取り組んだり、青年部のリーダーとして活躍したいと思うのはボーイスカウトに原点があると思っています。
■父親との関係は?
厳しい父の事がすぐに思い浮かびます。父は絵に書いた様な真面目な商人でした。
頑固で実直。石橋を叩いても結局は渡らない。堅実な性格
ただただ、仕事をしている姿だけが目に焼き付いています。
私が少年時代に遊んだ記憶は殆ど無いですね。怖い父。一度も反抗したことはなかった記憶があります。
父は本当に仕事一筋だったと思います。ただ父自身も自分の不器用さをどうにかしたい。そう思っているのだろうと感じた事もありました。
でもね、一度悪くないのに殴られた事がありました。今でも理由はわからない。
怖いという気持ちは子供ながらに焼き付いているのです。
■父親からの言葉で覚えている事はありますか?
父の言葉で「人に笑われたらダメだ」という言葉をよく思いだします。
これも父のプライドだったのだろう。と今では思うようになりました。
商売人としての恥じぬ生き方をする。それが信念だったのかもしれないなと思います。
■今年先代が亡くなりました。その事についてどういう思いがございますか?
父の死と向き合い、商人としての意志を継ぐ。そんな機会が訪れました。
亡くなる一年くらい前のことですが、ふと「これは初代(おじいちゃん)や二代目だったらどう考えるのだろう・・・」と考えるようになる事が多くなりました。
それが虫のしらせだったのかわかりませんが、
二代目が癌とわかったのはそのすぐあとでした。「強くて頑固な父が死ぬかも知れない」その現実を知ってショックを受けたのを覚えています。
そして父も市に直面して、不安と葛藤、そして決断をしているのがよく見えました。
そこで初めて苦手だった父と向き合う事になったのです。
長男として、三代目として築地近江屋という看板をいかに背負って行くべきか。
その時、実は私だけであたため、すすめていたプロジェクトがありました。
関係者にも内緒ですすめていたプロジェクトがあったのです。進めていってみんなを驚かしてやろう!! 最初はそういう気持ちでした。
ところが、父が病気になり、後ろ盾がなくなるというか事で不安が一気押し寄せたのです。
その時に初めて思い切って父に相談しました。
すると父は自分の失敗経験を話してくれました。そして『自信を持って進められないような事なら今すぐやめろ。店を潰すことになるぞ』と言われたのです。
父は、家と家業を大切にして来ました。そして私にバトンを渡してくれました。その気持ちを考えると今は損をしても、今一度後継者として足元を固める時期であり、キッパリと引く事も大切だ。
本業を疎かにせず、きちんと自分の本業を見つめなおすことが今やることだ。
そう思わせてくれました。今となっては『商売の本質を見極める為の』大きな授業料だったと思えるようになりました。
そしてもう一つ「自分がいなければ店はまわらない」そう思い込んでいたのですが、父の看病で店を空けることが多くなり、実際に店は離れてみると、なんと私がいなくても店はきちんとまわるのです。
これも気付かされた事でした。従業員のみんなは私が思っている以上にプロフェッショナルだったのだと思い知らされました。その気付きも感謝です。
■近江商人のDNAとは?
近江商人というのは、浪花(大阪)商人と伊勢商人とあわせて日本三代商人と呼ばれ、中でも近江商人は現代においても最も有名な商人と言われています。
なぜ有名だったかというと、自分だけの利己的な精神で商売をしている人が多かった中で、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方良しの精神で商売をした事で信用を勝ち取り、江戸時代に繁栄をした商人だからです。
私の祖父は正に、近江に産まれ、そして近江商人の血を継いでいました。
社名が近江屋という名になった理由でもあります。
今回の事もあり、私は近江商人というものをあらためて考える事になりました。
近江商人の十訓というものがあります。
正に、初代、二代目が考えていた、そして私に背中で伝えてきた「心」そのものでした。
自分だけの利益を考えず、世間の事も考える。
そんな生き方をしろ。そういうメッセージを生活の中で伝えてくれていたのです。
初代は築き、二代目は業務用の食肉卸しを展開し近江屋牛肉店の基盤をつくってきました。そして私三代目は何をすればいいのか?
現在85年。私の代で100年をむかえます。私は何をすればいいんだろうかと考える時間。それが父の亡くなってからの三ヶ月間でした。
■今後の夢と戦略について
今、築地は移転問題を控えて過渡期に有ります。
場外市場は都営で運営されている場内市場と違い、保証も何もありません。
つまり私達は全ての自己責任で、商売をしていかなければならない。
そして個が弱いなかで、築地場外市場としてまとまって、時代を乗り越えなければならない。
そういう状況の中、私は1人の商人として、この問題を解決していきたいと思っています。近江商人としてのDNA、教え、ボーイスカウトでのリーダーシップを学んだ事。それを活かす時が来たと思っています。
そして基盤をつくってくれた初代と二代目に対して、何より私を育ててくれた築地に恩返ししたい。
私は一生商人でいたい。そう誓いました。今流行りのITなどはもちろん活用しています。時代に逆らうことはしません。
でも、商売の基本である「相手がいること」これだけは忘れたくありません。仕組みだけで売上があがるという商売はしたくないのです。
規模が大きければいい。そういう商売もしたくない。
でも常に新しいものをとりいれ、新規開拓をしてチャレンジしていきたい。そう思っています。
私は恵まれた人間です。近江商人の家庭で産まれ、日本の台所築地市場で育ち、歴史のある店を継ぎ、築地場外市場にはたくさんの仲間がいる。そして私がいなくても頑張ってくれる従業員達がいて、店を手伝いながら頑張って、私をサポートしてくれる妻がいる。
私にとって全てが宝物です。私は運がいいと思っています。だからこの運を使い。「商道」にかけて行きたいと思っています。
現在50歳。残り100歳になるまでに私は商売の道を極めて行きたいと思っています。
■これからの近江屋牛肉店
近江屋牛肉店は、今までの業務(店舗とプロ向けの卸売)を基盤としながらも、時代に逆らわずにインターネット通販やテレビの通信販売、ギフト商品、そして海外への和牛マーケットへの輸出、ハラル食肉(イスラム圏の住民が食べられる牛肉)の取扱いなど、様々な経営課題に向き合い結果を出して行きたい。そう思っています。
私のこれからの人生で、どのような結果が出せるのか?
ようやく人生分岐点にきた今「近江商人+築地のプロの目利き」である事が私の矜持です。これを極められるかどうかわかりませんが、極めるようとする心が大切だと思っています。
これからも私は一商人として、そして築地の肉屋の三代目として、皆さんに良いお肉をお届けして行きたい。日本にも世界にも。それしか出来ないし、それが私の使命だと思っています。